摂食障害と蘭 Eating Disorder Ran

[摂食障害×世代間連鎖]「エセ摂食障害」

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「エセ摂食障害」

(わたしの摂食障害の話です。すみません、む、むだに超長いです。短くできんかった・・・)

わたしは過食嘔吐を一度もしたことがなくて、拒食症とチューイングを繰り返すというサイクルをひたすら18年間繰り返してきた。実は「摂食障害」で悩んだことよりも、親との葛藤やトラウマ、解離性障害、薬物依存症に苦しんだことのほうがわたしにとっては辛かったので、今まで自分の摂食障害のことをそんなに深く考えたことがなかったのだ。と、いうことに最近わたしは気がついた。
蘭さんたちのアンケートに答えた約1年ほど前から、蘭さんのSNSやブログなどに書かれてあるたくさんの方の書き込みを毎日読むようになり、他の方はわたしなんかよりずっと「摂食障害」に苦しんでおられる、ということにちょっとびっくりしたのだった。これはわたしが早いうちから社会性や 協調性やらを投げ捨てたからであって(そして投げ捨てても生きていける環境を選んだ)、わたしは随分‘身軽’なまま「摂食障害」をしていたんじゃないかと思う。

わたしが高校生~大学生のころは「過食嘔吐」イコール「胃に大量に入れた食べものを故意に吐き出す」という意味しかなく、「嚥下せずに口にとどめたものを故意に吐き出す」という行為に名前はなかったと思う。だから高校生の頃からチューイングがあったわたしは自分のことを「エセ摂食障害」であり、「摂食障害の出来損ないなのだ」と思っていた。過食嘔吐をしたいと思ったことが一度もなかったのは、飲みこむこと自体が恐怖なので吐くには至らなかったから。飲みこもうとすると、怖くて首から背中のあたりがひんやりしてくる。そしてしばらく葛藤したあげく、ティッシュペーパーにペッと吐き出すのだ。そうしているうちに、生存にはまったく困らず、‘美味しい’ものが溢 れているこの身近な世界から、わたしは食べものの‘美味しいとこ’だけをどんどん貪り出すようになった。食べものは光を放っている。これはかなり後付けだけれども、今思うと、わたしはこの光を口の中で消そうとしていたんじゃないだろうか?
もう休刊になってしまったけど、当時わたしが愛読していた『Olive』という雑誌にお悩み相談コーナーみたいなのがあって、そこで自分のチューイング行為を相談したら、答えてもらったことがある。そのときは「チューイング」という言葉もまだなかったのだけれど、わたしの相談に回答者の人が「それは摂食障害の一歩手前です」という返事を寄越した。その「一歩手前」という言葉にわたしはずーっと腑に落ちないまま、きっとこの年になってしまっ たのだ。気が付くとネット上には「チューイング」「噛み吐き(砕き)行為」という言葉やその意味がたくさん並んでいて、広義ではそれは過食や過食嘔吐と同じカテゴリだそうだ。

自分のチューイングのことを、高校生の時のお悩み相談コーナー以来、はじめて誰かに話そうと思う(医師にも家族にも話したことがない)。過食嘔吐と比べて、どちらがより○○(辛い、苦しい、病的etc.)だ、なんて野暮な話をしたいんじゃない。ただ、わたしのした経験や日々感じていることをなんとなく話そうと思っただけで、たいした意味はない。では、‘これ’は一体何なのか?と考えると、‘これ’は自分による自分のための自分の告白をこうして文字にする事によって、自分の気を楽にしているだけのナルシストの極みだと思う。黙っていることもできる。そして黙っていても、わたしは生きてこれた。それなのに、誰かに話したくなったのは、聞いてくれる(読んでくれる)「あなた 」の存在をわたしは感じるからで、「ちょっと話してみようかな」と思えるようになったのかもしれない。わたしは別に何も期待していないし、されてもないけれど、おそらく前よりも人が嫌いではなくなってきたのだ。だから、わたしたったひとりでは完結しないかもしれないこのネット上の作業に自らが進んで関わっている、というこの「わたし」の‘変化’がとても新鮮で楽しい。書くから誰かに読んでもらえるし、話すから誰かに理解される(またはされない)。わたしは今までこの作業をしたことがなかった。黙っている‘良さ’もあるけど、そうじゃない‘良さ’もあるんだな、と思った。
だから、ここにいつも書かせてもらっている自己満足な文章を好意であれ、嫌悪であれ、読んでいただいてい る方には感謝しかありません。本当に心からありがとうございます(なんかいきなりですが・・・)。

チューイングは過食嘔吐より際限なく食費がかかるんじゃないかと、わたしは思ったりする。チューイングのほうが身体的ダメージが少ないので、際限なくその行為ができてしまうんじゃないかな、と。わたしは小さな家を一軒買えるくらい食べ物にお金を使った。いや、過食も過食嘔吐もチューイングも過度なダイエットも、お金があればあるだけ逃れられずにやってしまう可能性が高い、とわたしは思う。ついでに言うと、これは完全なる偏見かもしれないけれど、同じ毒親育ちでも、裕福な家の毒親育ちの子のほうが親から逃れられず、いつまでもコントロールされてる場合が多いような気がする(わたし調べ)。その理由は、わりと裕福な家庭は社会的な立場や規範を意識する場合が多いので 、パッと見は「まとも」かそれ以上の格(?)があったり、周囲からの羨望もあったりする。だからそんな自分の家庭に対し真っ先に疑問を持てなかったりするんじゃないかな?と。また金銭的なあれやこれやを考えなくて済む分、自分の家庭を客観的に分析する機会が少ないんじゃないだろうか?などなど、わたしは勝手に勝手に思っているのですが、それくらい、お金というものはパワーを持っているとわたしは思うのだ。使い方や考え方次第であらゆる思考を麻痺させてくれたり、停止させてくれる(いいか悪いかはわかりません)。
逆に、お金が無くなってしまったから仕方なく過食続行不可能になる人もいるだろう。わたしもそういう時が何度かあった。お金がなくなっても、満足のいかない脳みそはい つまでもわたしに食欲を突きつけてくる。情けないかな、わたしは大学生の時、他人の財布に手をかける寸前まで行ったことがある。机の上に無造作に置かれた2万円入っているその財布が、喉から手が出るくらい欲しかった。それはそれはとてつもなく長く、緊張した留守番だった。そのうち家主がガヤガヤと帰宅し、なんとか自分を抑えることができたけどわたしはそんな自分を、「あぁ、窃盗しなくて助かった・・・」などと絶対に思わないようにしている。理性があるはずの「いいおとな」になった「わたし」は、とうとう我慢ができず他人の財布を盗んでしまった「いいおとな」と何がどう違うんだろう?たいした違いはないんじゃないか。トラックを運転しているわたしが、賑やかで色めき立った大通り の交差点に差し掛かったちょうどその時に、人生で最大で最強の「自棄」を起こしていた時だったらどうしてるだろう?今でもいつもそんなことを考える。わたしの心にはいつだって今すぐに大暴れしたい‘鬼’がいる。って・・・なんだか話がそれそうだが、そんなお金のない時は、小麦粉と本だしを水で溶いたものをフライパンで薄く焼き、それにソースをつけたものや、30円の天かすに塩やソースをかけたものをひたすらチューイングして、お金のある時はデパ地下で美味しそうなものを片っ端から買って食べた。随分お金を使ったなぁ、と今なら遠い目で思える(泣ける)。

過食嘔吐の人が、食べたものをどこに吐くのかをわたしはイマイチわからなかったけど、蘭さんの音声を 聞くようになり、「過食嘔吐の人はトイレや風呂場で吐く」ということを何となく理解した。最近、食べ放題に行った時「過食嘔吐等の行為はおやめください」という張り紙がトイレの入口にでかでかと貼ってあり、「おおう!こんなトコで吐くのか・・・」と、ちょっと怯んだ覚えがある。わたしも「摂食障害」なのに、やはり過食嘔吐についてはわかろうと努力しても、わからないことがたくさんある(当然だが)。
そんなチューイングのわたしはゴミ袋に吐き出す(故に外食ではほぼできない。でも嘔吐の人にもゴミ袋派はいるのでは?となんとなく思う)。チューイングの後のゴミ袋は、唾液の重さもプラスされ、45リットルのゴミ袋に子供の死体が入ってるんじゃないかと思うくらい、ゴミ袋が重 くて臭い。そのゴミ袋を捨てるためのゴミ捨て場を毎日転々と探 し、決して人に会わないよう日が昇る前にそのゴミ袋を捨てに行く。そのうち、わたしがボサボサの頭とむくれた顔で毎朝重たいゴミ袋を持ってくるのをカラスと野良猫たちが待ち構えている。それでなのか、うちの近所の野良猫たちはみんなデブだった。まだ薄暗い早朝、国道を眺めながら「ああ、このままダンプカーに轢かれて死ねればいいのに」と何度も思った(轢く側はたまったモンじゃないが)。それにチューイングは全然痩せないし、吐かなくてもなぜか唾液腺は腫れるし、ほっぺもむくむくになる。まったく食べものを飲み込まないということことはなかなか不可能らしく、知らず知らずに飲み込んでいるようだ。 顎だってどんどん立派になっていくので、ガッツリ発達した咬筋のせいでわたしの顔は弁当箱みたいだった。

「お茶碗を洗い終わるまでがお料理だよ」と言っていたおばあちゃんの言葉を借りると、ゴミ袋を捨てに行くまでがわたしのチューイング。そんな苦痛な‘ゴミ捨て’はわたしにとって一番心がズシンと重く、色々と考えさせられる。
高架下の陰気なゴミ捨て場に「えいっ」と重たい袋を放り投げた瞬間、わたしの心は解放された気分になるのに、帰り道はとても寂しい。わたしは一体何を捨てているんだろう。本当に捨てれているんだろうか?わたしが捨てているのは果たして‘ゴミ’なのだろうか?わたしはきっと、何か別のものを捨てている。とてもとても大切なものを。 それはきっと欲望まかせに口の中ですり潰し、消したと思っているはずの食べものの出す光なのだ。光はまだ消えていない。本当はわたしや誰かの身になることで、共に輝けたかもしれない光。誰かと笑顔で分け合えたかもしれない光。猫たちにもカラスたちにも、それはまだ光を放っているじゃないか。それなのにわたしはその光を拒んでいる。なぜだかどうしてだかわたしはそれを拒み、捨てている。わたしは光を拒み捨てている!わたしはきっと「生きること」を捨てたいのだ。わたしは多分生きていたくなかったのだ。でも、死なない限りそれは無理で、今のわたしには率先して死ぬ気もない。そういう意味では、わたしはこの18年何もゴミ捨て場には捨てれていない。わたしは生きることから逃れられない のだ。だから、わたしも食べものと一緒に光るしかない。そしてこうしている今もわたしは光っている。「もう観念しろ!!黙って食え!」と今すぐ叫び出したい。お母さんの橋の上で大声で自分に叫びたい!!蘭さんのSNSやブログで、一生懸命に吐かないようにもがき、努力してる方が「大丈夫!大丈夫!」と書き込み自分に言い聞かせているように、わたしも自分に何度も何度も言い聞かせようと思う。わたしは多分考えが甘い。すごく甘い!どうせわたしもいつか死んでしまうことを、そしてそれまでは生きているんだということを、ぬるま湯に浸かりながらすぐに忘れてしまう。食べものはわたしの敵ではない。あんなにあんなに粗末にしたのに、わたしを一つも責めもせず、わたしを守ってくれた。不器用 に悩み、親に苦しむわたしを慰めてくれた。友達がいないわたしの唯一の‘友達’でいてくれた。そして今日も食べものたちは光を放ち、大きな勘違いをしているわたしを、鍋の中で、冷蔵庫の中で、棚の上のバスケットの中でただ黙って待ってくれている。

わたしは現在の自分のチューイングを、うちの主人が高級な枕や寝具で寝ることとなんだかちょっと同じなんじゃないかと思うようになった。わたしはすのこの上でぐーぐー寝れるが、主人は高級な寝具でないと寝れない。わたしには今チューイングが必要なように、主人には高級な寝具が必要なのだ。彼は死ぬまで高級な寝具を求めるのかもしれない。わたしも死ぬまでチューイングをするかもしれない。でも、18年間もチューイングできるこの丈夫な体や、すのこで寝れる頑丈な体をわたしは最近すごく気に入っている。でも、なんだかんだ言って、実際のところは精神的に安定し、症状が治まってきたことも多いに関係あるし、この「魔法の杖」と気楽に向き合えるようになったのはただ「時 間の流れ」というものがあっただけにも思える。

で、何を言いたいのか正直自分でもよくわからなくなってしまいました。情報がすぐ手に入る現在は、症状のカテゴリ分けに悩んだり、病名が欲しくて悩んだ昔のわたしのような人はいないのかもしれません。でも、わたしのようにチューイングを言いづらくて悩んでる人がもしも世界のどこかにいるのなら、もっと誰かの理解を求めようとしてもいいと思います。それに苦しくて情けない気持ちを誰かと共感したりすることで、寂しく孤立した気持ちから一時は逃れられるのではないかとわたしは思ったりするのです。わたしも最近、自分の摂食障害にやっと向き合い始めました(遅いですがw)。
わたしは過去、自分の中でチューイングと過食嘔吐の線引きを曖昧にしてしまったことをわ たし自身の問題として、すごく反省し ています。「過食嘔吐のほうがメジャーだし、身体的にキツそう」という安易な考えから、過食嘔吐>チューイングの不等式を勝手に作りました。そして、例えチューイングも過食嘔吐も似たような症状であったとしてもなかったとしても、同じカテゴリであっても別にそうでなくても、自分から情報を集めることを断念し、自分の頭を使おうともせず、そして他人の理解をも諦めてしまったまま自分だけを意味なくひたすら責め、自分でモノを考えることから逃げた怠惰な自分が過去にはいたと思うのです。今はわたしの悲劇(もはや喜劇ですがw)や、あなたの悲劇を堂々と話せることは喜ばしいことだと思っています。蘭さんのSNSやこのブログでは怖じけず話せる仲間がきっと見つかるはずです。それにわたしで よければ、チューイングについてのコメントはしますし、わたしも他の方のチューイングのことも、もっと聞いてみたいです。
そして、とりとめのないクソ長い文を最後まで読んでいただいて本当にありがとうございましたm(_ _)m

※チューイングが「エセ摂食障害」だと言ってるわけでは決してありませんので悪しからず。

執筆者

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きぴ、女です。

摂食障害という「魔法の杖」をつきながら、18年が経ちました。10代から摂食障害になり、自己否定感と、劣等感と、それはそれは妙な自信とで生きていました。醜態恐怖症と薬物依存症もありましたが、日々、孤独に内省することで自ら克服しました。自己否定感と劣等感にも以前よりは苛まれなくなり、現在は随分生きやすくなりました。

どちらかというと孤独をすごく愛していますが、そう格好つけて言えるのは自分は孤独ではないからです。ここで、みなさんに出会えたのは摂食障害になったおかげだと思ってます。みなさんには本当に感謝しています。橋と地図と犬とひたすら何かを考えることが好きです。詳細はコチラ

最後に

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はじめまして。蘭と言います。1983年生まれ、現在は旦那さんと娘と息子の4人家族で神戸に住んでいます。その前までは、5年の過食嘔吐、嘔吐を辞めて完治するまで9年。全部で14年かけて摂食障害を克服しました。このサイトでは、皆の摂食障害体験を共有するアンケート、摂食障害経験者によるコラム、自由に書き込める摂食障害のための掲示板を管理しています。